――タイトル名を「ナジリク」「ジャコダン」(2006年展示作品)とつけた理由は。今回で個展は3回目になりますが、最近の制作では、日本の土地の固有名詞からとった言葉をもじって、作品のタイトル名を付けています。「ナジリク」「ジャコダン」は、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島を念頭に置いて、風刺的な意味合いを込めて、僕流にアレンジしてつけた言葉なんです。ただ、風刺的な意味合いといっても、単に政治的な社会的な状況を、クローズアップし滑稽化したいのではなく、むしろ、自分たち若い世代に向けてのメッセージといえるかもしれません。なぜ、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島などの、北方四島をクローズアップしたかといいますと、北方四島には終戦まで、日本人が住んでいましたが、旧ソ連に強制的に退去させられたため、現在では日本人は一人も住んではいないからです。北方四島の土地そのものは日本人の物ですけれども、住めない現実があります。戦争などの過去のいきさつについては、僕らの世代は、漠然としたとらえ方しかできませんけれども、実際に日本人が住めないという。事実としての認識はそこにあります。そういう現実のリアリティーに対して、自分を含めた若い世代は、余りにも無関心ではないかと思うのです。 |
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――真の知に至る出発点は、無知を自覚することにある。僕の制作に対する思いとしては、僕自身を含め、「今の若い世代の自国の文化や歴史に対する無知」がテーマの一つとしてあげられます。 |
――リアリティーの欠如は身体感覚の欠如かもしれません。
テクスチュアに漆ではなくカシューを使っているのは、カシューを日本の古典技法の「研ぎ出し」風に見たて、日本のアイデンティティーを中途半端に取り入れたようなイメージを、素材やテクスチュア、タイトルに反映させようと考えたからです。
サブカルチャーは自分の中では内面的な色合いが強く、自分から自主的に取り入れたカルチャーは、どちらかというと表層的なところに現れやすいといいますか。そういうリアリティーの欠如は、身体感覚の欠如として、現出しているように思うのです。
――FRPの素材とサブカルチャーを重ねると見えてくるもの。
元来彫刻というのは、絵画のようにイリュージョンを表出させるものではなく、物として実在感を伴って現前します。素材も、木とか石とか鉄などのような実在素材が多く使われる傾向があります。ですから、まだ歴史的にも浅い(1940年代に開発された)、中間素材というか、あいまいな印象の強化プラスチックのFRPは、受け入れづらいように思うのです。でもこの素材を使うことで、ある意味、身体の内部の分断された積層する意識を、癒合させる事ができるのではないか。漆の代用品のカシューを塗ってモノを作る。その一見キッチュな文脈から、今の自分のいる位置。強いては、日本の曖昧な「今・ここ」が、表出するのではないかと思うのです。
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――個性が備わった「彫刻人形」は人間に近い存在。彫刻の中でも、特に人体をモチーフとした彫刻というのは、どちらかというと偶像に近く、そのモノ自体に性格も個性もありません。ある種「神」的なものを内包した立体のことを彫刻というと僕は思うんですね。人形というのは個性とか性格があって、人間のイメージに近づけようとして作られたもの。彫刻というのは偶像ですから定義はないわけですけど、人形の定義は、愛玩(あいがん)するという目的や鑑賞としての目的、飾ったり触ったりする目的があります。 |
――人は闇から生まれて闇に消えていきます。僕の作品は、自分をモチーフにした立体なんです。
平面の「モブビーラ」(2006年の展示)に描いている人物の踊っている様やバックの赤い色は、煉獄(れんごく)のイメージがあるんです。幽(かす)かに見えている黒は、「闇」。人は闇から生まれて闇に消えていきます。生きていることは、ある意味煉獄(れんごく)の中に投獄されて、出口のない状況みたいなものではないでしょうか・・・。
僕の作品は、自分をモチーフにした立体ですので、自分がもがき苦しんでいる気持ちが、自然にモチーフに投影された結果、立ち上がってくるのかもしれませんね。
――2006年の展示は、「間テクスト空間を念頭に置いたインスタレーション」と考えています。立体には、自分の中の思いが具体的な形となって、性格やキャラクターをもち始め、平面には、自分の中でまだ眠っている精神的なもがきだとか内省が含まれています。ただテクストを、飽くまで同時代のものとしてだけ捉(とら)えるのではなく。歴史学的テクストと癒合させたいのです。それが新しい創造を生むと考えます。 |







