Kaleidscopic Gallery Scene

藤井拓馬 展 “SLEEP, text.,Translation”
2005.7/4-9



GALERIE SOL 東京都中央区銀座6-10-10 第2蒲田ビルB1 TEL 03-5537-6960
11:00-19:00 日曜休
http://www005.upp.so-net.ne.jp/SOL/


2001 筑波大学芸術専門学群美術専攻洋画コース卒業/2002-佐藤国際文化育英財団第12回奨学生/2003 筑波大学大学院修士課程芸術研究科美術専攻洋画分野修了
個展
2004 「sleep in the language」、GALLERY PSY、東京/2005「SLEEP、text、Translation」、GALERIE SOL、東京
グループ展
2000 「第18回上野の森美術館大賞展」入選、上野の森美術館、東京/2001「卒業制作展」芸術専門学群長賞、つくば美術館、茨城・「第19回上野の森美術館大賞展」入選、上野の森美術館、東京/2003 「修了制作展」、つくば美術館、茨城・「第12回奨学生美術展」、佐藤美術館、東京・「平和へのメッセージ展」、佐藤美術館、東京/2004「real point 一平面の可能性−」、佐藤美術館、東京
パブリック・コレクション 筑波大学芸術学系



 「眠る」という行為が苦手だった。

雨の日にそれとよく似た思いを感じた。

 「眠ってしまった」「眠りたい」「6時間眠った」。
実際はその行為よりも「眠る」という言葉自体に縛られていることに気付く。

なにげなく普段使っている言葉が、本当はどんなカタチをしているのかを知りたい。

言葉そのものを、比較的使い慣れた絵画形式に置き換えようと試みている。
 「眠る」からイメージするのではなく、「眠る」そのものを描こうとする。

文字を書くように色を置く。
辞書を引くように線を引く。

しかし、その言葉が主観の表出の域を出ることはなかなか難しい。
そこで、文字形式の言葉を同時に画面に貼り付けてみる。
等価な二つの異なる形式の言葉を提示することで、
不確かな言葉は、そのカタチをあらわにしてくるはずだ。

観てくれた人にとって何かのきっかけになれればいいと思う。
また、私自身それらの行為から言葉をうまく捉えていければいいと考えている。
 


・・・今回のタイトルは、“SLEEP, text,Translation”、これを日本語に訳すと「眠る、テキスト、翻訳」という意味ですか。死を表現されているんでしょうか。

ご覧になった方は、図像的にはカーテンや広がる大地を描いているように見えるので、生とか死とかをイメージされる方もいらっしゃるのですけど、僕としては、元々言葉を絵に置き換えるという意味でTranslationという言葉を使っています。そういう意味の言葉を表示するためにtextという言葉も使っているんです。
僕は眠るのが元々浅かったり、眠るのに嫌悪感を覚えたり、あまり好きじゃなかったんです。しかし実際は、言葉の見た目や響き自体に対して、自分が引っかかっていたのではないか。
たとえば1時間眠ったから4時間眠ったからと言ってそこに差があるわけではなくて、また眠りの浅い深いに差があるわけではなく、眠るという言葉自体に自分がどこか引っかかっていた。それで自分にとって眠るという言葉自体が何であるのかというのが、すごく知りたくなって、そこから言葉をテーマに絵に描こうと思いはじめたんです。
SLEEP以外の他の言葉も結構あるんですけど、個展なのでひとつのイメージを作るためにSLEEPという作品をメインに持ってきました。

・・・アートも音楽も言葉も、根源は同じところから出ているような気がするんです。
人間のひとつの表現として生まれたものだというか。普通言葉に置き換えると分かりやすいというけれど、言葉がいちばん難しいと思いますね。言葉を絵にするという作業は、かなり難しいんじゃないですか。

眠るという言葉の作品を何枚か描いているうちに、本当であれば眠るという言葉を翻訳するのであれば、毎回同じイメージが出てこなければいけないんだけれども、そうではなくて毎回違うイメージになる。僕の中でも処理しきれない眠るという言葉の捉え方があるのだから、多分それはいろんな人にも通じることだと思うんです。その言葉を僕が知りたいということと、人にとってそれがどうあるのかということを知りたくて、何枚も制作しているんです。
タイトルに「SLEEP,drift」や「SLEEP,DRESS」など言葉を重ねているんですけれど、この言葉の選び方は、SLEEPという言葉になんとなく似ている感触を覚える言葉というか。意味的に何かあるということではなく、感覚的に自分の中でただ単純に似ているなというインスピレーションを覚えた言葉を並べて、その二つを同時に絵に置き換えてみよう。それで一つ一つ言葉は変わるものですから、絵も変わってきて、そのなかで、眠るは自分の中でどんなものであるか。それを見てくれた人にとっても眠るという言葉がどんなものであったのかということを改めて考えるきっかけになったり、それがどんなものであるのかということ聞きたいなと思っています。

・・・眠るという言葉は動詞ですよね。動詞は行為をあらわすものだから、その人にとっての行為は、本人でなければ絶対に分からないもの。以前本で読んだことがあるんですが、たとえば蛍光灯を指した時に、声が低い人や高い人が言っている蛍光灯という言葉と、子供が言っている蛍光灯という言葉は、それぞれ違うんだけれども、イメージするのは、同じものを思い浮かべるわけですよね。確かソシュールのシニフィエ、シニフィアンというのはそういうことが書かれていたように記憶しています。

僕の捉え方ではシニフィエは、そのものが何をあらわすか。シニフィアンというのはそのもの自体であったり、音とかを表記する方法であったり・・・僕でいえば、作品はシニフィエであるわけです。ですからシニフィエ、シニフィアンを包括するメタ言語と言われるようなものを自分では取り扱っているという気持ちでいます。

・・・言葉にすると、みんな納得するように思いますけど、それは錯覚であって、言葉ほどあやふやなものは無い。変な言い方に聞こえるかもしれませんけど、このインタビューを文章に起こした時に読み手が黙読する言葉と、実際に藤井さんが話している言葉はズレが出てきてしまうんです。どんなに優秀なライターが書いても絶対ズレてしまう。それがある意味、この作品を作る側と、見る側の相違点と同じことだと思うんです。

結局同じ言葉を言ったとしても違ったり、僕が説明しても違うふうにとったり、それが言葉のあり方であって、違うんだけれどもそれも含めて全部言葉の力である。

・・・たとえば絵画は、多重空間を表現することがありますよね。その多重空間という言葉がどういうものかといえば、絵の中に入れるような空間だという。では中に入れる空間が多重空間で、今いる空間は、どういう位置にあるのか?それもまたとても曖昧なもの。この世界に立っていること自体が、とても曖昧な表層の上にいるような気がするんです。

そうですね。不安定なところにいるにもかかわらず、確かだと思っているものを信じているだけなんですよね。

・・・ところでこの作品の展示方は、リズムをかなり意識されているんでしょうか。

この空間で展示することが決まってから、すべての大きさも決めているので、リズムとか、ある程度のイメージがありますけれども、やはりあるべき場所と言うか。絵自体を見て、言葉自体を見て、どこにあるべきか。ですから同一線上にある展示でもかまわなかったんです。それがその作品が求める場所であれば・・・いちばんその作品がしっくり来る場所、それがしっくりくる言葉の選び方と一緒なのかなと思うんです。でも言葉、言葉といっても絵だけを見ていいと思ってくれるのが理想的な形だと思います。
これはある方から言われたことですが、「そうはいっても絵はそれぞれの捉え方があるし、視覚芸術のわけだから、そういう細かいことは伝わらないかもしれない。絵だけで楽しめればそれでいいじゃないか」と、僕もそれはそれでいいと思います。

〜9日まで。

(c)FUJ I I TAKUMA

 

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