| ・・・タイトルは「沈黙のトルソ」。
今回は作品に「宙の花」と「宙の花(沈黙のトルソ)」というタイトルをつけましたが、基本的には「沈黙のトルソ」なんです。タイトル名は、いつも会場に展示した全体のatmosphereの空間を読んで決めるので、次回もこのタイトルになるかどうかはわかりません。でも花のシリーズは「異郷の花」「花の形」「宙の花」のシリーズへと繋がっています。自分の原初の核の部分にぶれはないので、ずっと繋がりを持って描き続けているのです。
・・・今回の展示空間では「宙の花」と「宙の花(沈黙のトルソ)」が、まるでフラクタルな図形のように、人体の躯幹の内なる宇宙と、それを内包する母なる宇宙とが共鳴し永遠に続くリズムを奏でる・・・それが「トルソ」という形象に集約されているように思うのです。
それはあると思います。トルソの解釈としては、巨視的な部分でも「トルソ」だし、絵画の中に内包された部分でも「トルソ」である。それこそフラクタルな関連性として結びついていると思っています。今回展示した立体の作品でも、もちろん空間観は平面と違うけれども「トルソ」は
内包されている。そういう関連性はありますね。
・・・そして単なる幻想性ではない現実性を伴った「トルソ」という明確な形象があることで、よりリアリティーを見る側は感じるのでしょうね。
自分の持っているイメージというのは、見る側にとっての解釈は自由だけれども、違う方向に解釈されるのは辛いわけですから、どこかに境界線を置くという意識はありますね。
・・・コメントにも書かれていましたが、「沈黙のトルソ」というのは、「仏様」で宜しいんですよね。沈黙という言葉の意味を少し説明していただけますでしょうか。
美術において、制作のモチベーションを考えると・・・それは「何かを伝える」ということでもいいんだけれども、そのモチベーションの実態は何かということが、日本の場合歴史的にみてもとても曖昧だと思っているんです。それを「トルソ」がぼくたちに言っている。「もの」を作っている人たちのモチベーションのありかは、どこなのかと「その辺をはっきりしないでいいの?」と、無言のメッセージを問いかけているような気がしたんです。コメントにも書きましたが、沈黙というのは饒舌の裏返しである。すごくいいたいことがあるにちがいない。それを「トルソ」を通じて自分自身に言い聞かせているんです。
・・・「トルソ」という言葉だけを抽出したときに、「トルソ」というのは、とても西欧的な概念ですよね。でも先生が描いておられる世界は、西洋に対立する概念の東洋ではなく、もっと大きく包み込むようなエネルギーというか。それを言葉に変換すると、「花であり、トルソである」その生命の奏でるリズムを描いておられるような気がします。
ぼくは美術大学で西洋画を学んでいますから、「トルソ」の言っているようなそのモチベーションをずっと考えていて、2003年に高島屋で「オマージュ展2003」を展覧しました。それは日本の古典を、単に自分の表現手段のアイテムとしてオマージュするのではなく、一旦名画、例えば「日月山水図」「仏涅槃図」「源氏物語絵巻」などに入る形をとることで、日本の古典との「厳粛な距離」を実感する試みでもありました。そしてそれは江戸以前の巨匠に平伏して「僕らは西洋画を学んでいて、きちっと日本の古典に真っ正面から向きあわなかった非礼を侘びる」つもりで描いたものなんです。
・・・それが今回のこの壁面の「雲中菩薩」に繋がるんですね。
宇治の平等院鳳凰堂中堂の母屋内側の壁に懸けならべられている52体の菩薩像を拝見したときに、とても惹かれました。ただ同じように雲の上に置かれた蓮華座に乗った仏を描くのではなく、「今」という状況のなかで「ぼくが創造するぼくのなかから出てきた形」に変換して展示してみたのです。
・・・壁面なんだけれども、果てしない空をイメージします。
背景というかキャンバスが無限大の空ということは、これ以上のことはないと思います。
何処にでも自由に羽ばたくことが出来るわけですからね。
〜12月3日(土)まで。

(c)MUROKOSHI TAKEMI
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