Kaleidscopic Gallery Scene

岡村桂三郎展
2006年2月20日-3月4日



コバヤシ画廊企画室
東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1F TEL 03-3561-0515
11:30-19:00 日曜休
お問い合わせは コバヤシ画廊企画室 kbysg@gf6.so-net.ne.jp

・・・タイトルは「眼龍」。2004年のコバヤシ画廊での展示で、「白澤(はくたく)」【詳しくはhttp://www.gaden.jp/info/2004/040223/0223.htm】を拝見致しましたが、この時もかなり眼が印象に残りました。眼をたくさん描こうと思われたきっかけを教えてください。

「白澤(はくたく)」は眼がいっぱいあることによって、色んなことを知っているという意味合いがあるそうです。何故眼をたくさん描こうと思ったかというと、眼はいろいろなものを見て認識し把握する「智」の象徴みたいな気がしているからです。理性に繋がるような感じがありますね。龍に関しては何度も話をしてるんですけど、大気の循環というか。地球の大気が動いている象徴だと思っています。 その象徴としての龍に眼がついている。はじめからそれを意識して描いたわけではないけれど、それは地球規模の変化に対する不安の象徴かなとも思っています。「眼龍」は僕が作った造語です。そこに眼がたくさんついているということは、向こうもこっちを見てるし、こっちも向こうを見ているということも言えるのではないかと思っているんですよ。

・・・「眼龍」は超自然的啓示かもしれないですね。

それはわかりませんが、描きたいと思ったのは確かなことですし、描き終わってから漠然とそういうことかもしれないと思っています。「何故人は、絵を描くのだろうか」と考えると、最初は呪術的な要素が絶対にあったのではないかと思うんです。例えばラスコーやアルタミラの洞窟の壁画を見ると、自分達が食べてしまった動物が死ぬことで超自然的存在に豹変するのではないかという恐れがあった。それで動物達を神として崇め、慰め祀る儀式として絵を描いたのではないかと思っているんです。

・・・確かに、超自然的存在に対して、畏怖の念が強かったんでしょうね。 壁画には、結界というか「あわい」としての役割があったのかもしれませんね。ところで今回の展示は、まるで洞窟の中にいるような、囲みの中にいるイメージをすごく感じますが・・・。

「囲まれてその中に入り込んでくる」そういうイメージが僕の中にあったのです。作品と作品の間に入っていく行為から、その中で感じる世界というか空間を作りたいなと思いました。平面の絵画として制作してはいるけれど、僕にとって重要なのは会場に入ってきて、その時に感じる感覚や、絵から何かを受け取る感覚が大事だと思っているんです。ですから図柄がちゃんと見れなくてもいいだろうと思っています。極端な言い方をすれば、作品が全く見れなくても、気配だけでこの会場が作れればそれで充分だと思っているんです。

・・・私たちのセンシビリティーには「超時間的な生命記憶」がインプットされている。気配を感じるということは、生命記憶を呼び覚ますことにも繋がるのかもしれませんね。絵画は見ることがすべてだけれども、見ることは、何かが存在することを感じとろうとすることだから・・・。思い返せば、2003年
(http://www.gaden.jp/info/2003a/030221/0221.htm )2004 年、2005年、 2006年とコバヤシ画廊での展示を拝見していますが、作品の位置が刻々と変化しているのには驚かされます。

2003年はかなり平面的でしたけど、2004年の 「白澤(はくたく)」は今回の展示に近く、2005年は多少絵画としての画面を見せるような形になり、今回の構成はより中に入り込むような形になりました。僕の意識の中では、図柄的に去年の「象」の作品に繋がっていくような、いわゆる絵画というよりは「絵」として・・・「去年は、象の絵を描きました。今回は、龍の絵を描きました」という意識で、描こうと思ったんですよ。

・・・展示はかなり大変だったのではないですか。「場」のもつエネルギーと作品が共鳴し響き逢っているので、とてもいい空間を感じることができるんですが、例えば美術館で展示される場合は如何なものなのでしょうか。

はじめにきちっと作品のサイズを構想したとしても、展示してみるまでわかりませんから、かなり大変でした。結構筋肉痛になりました(笑)。美術館の場合は自分で何度も足を運んで、構成して来るんです。26日まで佐藤美術館で展覧してるのですけど、展示空間の中にストーリー性をもたせるためにどういう風に配置するかをかなり考えましたね。

・・・・佐藤美術館では「海女の珠とり」の絵本の挿絵が展示をされていますが、岡村さんの作品自体の流れの中に、物語性が潜んでいるように思うのです。拝見している方もそれを読み、作家自身も描きながら読みを体感されているように感じます。

そうかもしれませんね。自分自身のストーリーみたいなものはありますからね。
絵本の挿絵を手掛けたことはとても良かったと思っています。いわゆるモダニズムだけで括ってしまわない。「海女の珠とり」は 命がけで子どもの将来を願う母親の深い愛情がテーマ何ですけど、私自身一人の人間として、「絵を描く行為はどこから来るのか。そこに喜びを生み出せるのか」その気持ちを思い出させてくれたというか。ですから絵本の絵でもって語りかけることは(人間は、何か物語とか言葉を図像化して語る部分があり)、そういった普遍的なものを常に呼び覚ましてくれる。今では皆ほとんど描かないけれども、青邨や靫彦は歴史画を描いていたわけですから。そういうものはとても面白いと思うし、そういった可能性を全部棄てたくないと思っています。

・・・歴史画で思い出しましたが、岡村さんには、高松塚古墳やキトラ古墳の四神「青龍 白虎 朱雀 玄武」のイメージが身体の内部にあるように思うんです。高松塚古墳やキトラ古墳はラスコーやアルタミラと時代は違うけれども、どちらも生者と死者が繋がる魂の拠り所であったのではないかと・・・絵というのは、見えるものと見えないものを繋ぐ役目があるとするならば、岡村さんはそれを描かれているように思うのです。

高松塚古墳やキトラ古墳は、絵を描きはじめた学生の頃から好きで何度も挑戦しています。遺伝子的に感じる部分があると思うんですよ。それはおそらく世界中の人が同じように、感じるものではないかと思いますね。

〜3月4日(土)まで。

(c)OKAMURA KEIZABUROU


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