Kaleidscopic Gallery Scene

瀧澤潔 新作展
2006年4月10日(月)-15日(日)

コバヤシ画廊
東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1F TEL 03-3561-0515
11:30-19:00 日曜休
瀧澤HP http://www.geocities.jp/packsafe


略歴
1978千葉生まれ 和光大学芸術学科卒都内を中心にサイトスペスィフィックに発表する。
ダンサーや音楽家とのコラボレーションなども積極的に行っている。
05 経堂appe個展、慶応大学にて黒潭美香Jazzzz-Dance美術担当、など。


一光のユートピアー

蝋による光の空間構成。壁面に覆い尽くされた蝋壁に見出される光。壁面という立ちはだかるその先には何があるのか。その壁の向こう側へと導かれていく。
そこでしか出来ないという出来事を意識化したい。
壁は建築的構造体の重要要素。ミラーを蝋の内側に設置することによってスポットライトの光を反射させる効果を狙う。ところどころのミラーには鑑賞者の姿もかすんで映される。壁面での構成はベルリンの壁、パレスチナのアパルトヘイト・ウォールからの引用。


・・・タイトルは「untitled」でよろしいですか。空間すべてが作品ですね。

ええ。空間すべてが作品です。タイトルはつけていません。タイトルをつけると、言葉に引きずられてしまうような気がするからです。

・・・この空間に入ったときに、catacombeのイメージをかなり感じました。そういう圧迫感を感じたというか。ご自分の中でもそのイメージがあって、制作に結びついたのでしょうか。

具体的なイメージというのは特にないんです。敢えて社会性というところからまず一つ言いますと、今現在パレスチナとイスラエルの間にちょうど分離壁というものが、イスラエル側で作られている社会現象がありまして、それは700kmという膨大な距離の壁を建設するという法案だったんです。これは日本で言えば、東京から青森までの距離なんです。信じられない長さの距離の中で壁が作られている。実際に日本に作られたとしたら、どういうことが起こるかと考えたら、恐ろしいというか。どうしようもない自分の中の衝動がありますね。
そういう気持ちが壁面に、無意識的につながっているのかもしれません。

・・・何故、蝋で壁を作ろうと思われたのですか?

敢えて蝋壁を使ったという問題なんですけれども、パラフィンワックスという触るとポロポロと壊れやすい素材の特性を使って、敢えて弱さ、しかし見ると下から上まで張られている堅固なイメージ、そういう二面性を試してみたかったんです。そして真ん中で仕切られた鏡なんですけれども、これは僕自身壁面というものに対して、2年半前からインスタレーションという手法で提示してきたんですけれども、こちらは側と向う側という世界観の違い、そういうものをこの鏡という素材でコネクションが出来ればというのが、いちばんはじめのイメージだったんです。けれども、実際展示してみるとですね。僕にはそういうイメージがこの作品から伝わってこない。もちろん窓的なイメージで、伝わってくるという方もいらっしゃるんですけれども、それほど強烈な窓的なイメージはないんです。しかしながら何か違うものとして、まだ消化しきれていないモヤモヤ感が残存しているんですけれども、でも鏡を使ったのは間違いではなかったと、僕自身思っています。

・・・瀧澤さんの壁の概念というのは・・・。

壁自身の問題に対しては、隔てるもの、防御するものという一面があると思うんです。僕は、京都の日本庭園や塀に興味があるんですけれども、壁面があることによって世界が広がるというイメージがあります。東山の法然院にある庭園に行ったときに感じたのは、壁面があることによって奥行き感が感じられたこと。要するに奥の世界をイメージすることが出来るというようなことが、僕自身の壁面のイメージではないかと、思うんです。

・・・素材に新聞紙も使われているということですが、分離壁の問題とか、社会的背景を考えて使われているのですか。

直接それを伝えるために、視覚的なものとして使ったわけではないのですけれども、ゆらぎとなって立ち上がってくるようにも見えるのかもしれません。

・・・ただ、壁を見つめていると、新聞紙を使われた部分は、蝋でコーティングされた黒いシミとして、こちらに迫ってくるようなイメージを感じるんですよ。そこから荒涼とした物語が生まれ、それはまるで闇と向き合うような・・・。

今まで聞いた意見としては、真二つに分かれるんですよね。意外と居心地がいいとか、絵の中に入った感じがするとか、そういう意見が多かったんです。確かにベルリンの壁は、人と人を隔てるための象徴的なものとして考えられていますし、それが今は現実にイスラエルとパレスチナの分離壁と称される。だからといってそのイメージが、こちらの壁というものに喚起されたとか、置き換えられたということてはないんです。ある意味、僕自身はモノクロームの美しさみたいなものにひかれて、この色彩を選んだということと、コラージュというかドローイング的な面白さにひかれたというか。表層的な意味合いでは、それがきっかけとしてはありますね。確かにボコボコして、うねうねしていて、質感も、ぬめとしているから、おっしゃられたイメージも立ち上がってくるのかもしれないと思いますけれど・・・。
ただ社会的な意味合いというのは、聞かれなければ言わない程度でいるんです。

・・・そうするとさっきまでの話は、矛盾しますよね。私は、作品というのは、実際に見える世界と見えない世界をつなぐものと考えているのですが、今回の作品は、作者の意図とは別に、地下の「場」の持つエネルギーを、この壁が吸い込んでしまったように思うんです。むしろそういう呪術的な要素のスイッチを無意識の内に、押されたのではないかと。ですから内と外の境目である皮膚みたいなものを、作られたような気がします。ご覧になる方によっては、母の体内に戻ったような安堵感を覚える方も、いらっしゃるかもしれないですけどね。

建築的な要素の壁面は、塩田千春さんが、2005年に京都精華大学のギャラリートークで、第三の皮膚と言う考えを『第1の皮膚は自分の皮膚です。そして第2の皮膚というのが自分の洋服であれば、第3の皮膚というのは、建築、またはその境界、壁であったり、窓であったり、ドアであるのではないかという思いに至りました』と述べておられるのですが、自分でも壁面は、第三の皮膚と感じてまして、洋服も、第二の皮膚と考えているんですけれども、去年の5月の展覧会で、ライブハウスのトイレの中に、ラテックスというゴムの樹脂を、オールオーバーに壁面に張っていくインスタレーションをしたんですが、まさに、今おっしゃったような体内と体外との関係性というのを、そのときにインスタレーションをしてみて改めて感じました。

・・・オーストリアのアーティストのフンデルトヴァッサーも、第3の皮膚の話をしていますね。確か彼は『目に見えるカタチの奥にあるエネルギー(生命)を信じ、それ自体が生命体として活動するもの』ではないかと考えていた。と何かで読んだことがあります。瀧澤さんの作品は、そういう意味合いで読み直すこともできるけれど。むしろ負のイメージというか・・・パラフィンワックスのぬめぬめした質感に、黒いシミ、もしかしたらこれは血の跡かもしれない。そう思うと地下の牢獄の中に閉じ込められたような戦慄を覚えるんです。ただこの戦慄は、私の外側に存在しているものなのか。私の内側に存在しているものなのか分かりませんけどね。

インスタレーションは、設置するまで分からないんですよ。でもインスタレーションは、空気を作る行為だと思っているんです。

・・・空気を作ることで、この場の積層する時間の体積が、均質な空間として表出したように思います。鏡を設置されたことで、自分自身と対峙する壁という意識で見つめているものは、自分自身の皮膚かもしれない。外側から眺めているつもりが、いつしか内側にいるような、自分が、匿名性を持った身体と化したような目眩を感じるんですよね。

設置しないと見えてこないものですから・・・でも、おっしゃられたことを鑑みれば、これを言っていいのかどうか分かりませんが、こちら側とあちら側というような関係性や地下に降りてくる閉鎖的な感じ、そういうものは、ぬぐい去れない部分がありますよね。

・・・この地下に『気』みたいなものがあるとしたら、新聞を使ったというのが、それに呼応したのではないかと思います。新聞は、社会の出来事じゃないですか。新聞紙を使ったこの壁からは、社会の中の積層する時間を凝縮されたような感覚を受けますね。

この壁は、新聞紙にトイレットペーパーを引き詰めて隙間をなくして、パラフィンワックスを溶かして流し込んだんです。染み込んだトイレットペーパーを新聞紙からはがすと、新聞紙のインクがパラフィンの方へ転写される。その行為が面白く+その意味合いが強いなと思っているんです。文字はバーナーで溶かすんですよ。事件という風化されがちなものから文字を消しさり、痕跡だけを止めるというか。

・・・それは、一見作品の外側からしている行為なんだけれども、自分の内側に跳ね返ってくる。生活空間においては、外と内は遮断された独立体となって、存在しているような関係なんだけれども、実は外との関係を体内に直接受け入れている。だからこの壁は、向こう側を感じるというよりも、包みこまれてしまうというか・・。

そういえば、卒業制作を作ったときに、自分のイメージとは、全く違うものを作ってしまって、作品から自分に跳ね返ってきたことが一度ありました。

・・・写真家がシャッターを押すときに、直感で撮るというのがありますよね。場にひかれるというか。その場に呪術的な部分がないと撮れないように思うんです。見えるものと見えないものをつなぐというのは、死と生をつなぐものかもしれないですよね。素材に、パラフィンや新聞や鏡を使うことで、結界のような均質な空間を作り出されたのかもしれませんね。

僕自身はもともと絵画を描いていまして、絵画は壁に釘を打って設置するんですけれども、建築からのパワーが強すぎてしまって、自分の制作した絵画が、あまりにも多義的に見えてしまったことがあるんです。「何故建築によって見え方が違うんだろう」僕の作品は、そこからスタートしたんですよ。建築に負けるわけにもいかないし、建築を負かすわけにもいかない。そのバランスが僕自身の中で、重要なものだと思っています。

・・・呪術的な要素を、美術用語に置き換えると、「場のエネルギー」と言うのかもしれません。

場のエネルギーというのは、ただのホワイトキューブでは生かしきれないのかもしれませんよね。

・・・逆に場所から呼ばれるということもあるかもしれない。これからはどのような展開を考えておられますか。

やりたいことが実は決まっていて、僕自身場所性ということに対して感じることが、いっぱいあって、場所をまず探すということですよね。どこでやりたいか、いくつか検討しているんですけれども、まだ発表までには至っていません。それに壁面の問題はまだぬぐい去れないなと思っています。ドローイングや彫刻は、以前から多少作ってるんですけれど、そういった積み重ねが、こういった絵肌につながって来ているのかなとも思います。

(c)TAKIZAWA KIYOSHI


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